日曜メッセージ要約版

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メッセージ要約版

1月16日

残ることなく示された愛(ヨハネ13:1)
世の中には愛されていない人、愛に裏切られたり、愛を求めている人が多く、その結果、傷を受けたり、振り回されたりしています。このような生き方がドラマになってテレビや映画にもなりますが、結局、人間に愛を求める人生のドラマは限界があります。結論的に、神の愛しか終着点はありません。
今日の聖書箇所には、十字架を前にして、イエス様がこの世での人生の終わりが迫っていることを知り、弟子たちの足を洗ってくださる話が出てきます。ここからイエス・キリストを通して示される、神様の愛がどのようなものかを考えてみましょう。
まず、神様の愛は無条件の愛です。この世では他に見ることはできない愛です。人は条件つきの愛しかありません。それゆえ、条件に合わないと失望したり裏切られた思いになるのですが、神様の愛はそれとは次元がまったく違います。神様は、私たちがまだ罪人であったときに、愛してくださいました。愛される資格などまったくない、滅びの運命にいる罪人を愛されたのです。神様から離れ、幸せ、安らぎなどまったくなくし、悪魔に支配されて、そのあかしとして、偶像崇拝をして、生まれながら神様を知らず、本能的に神様を拒否するような罪人を愛してくださいました。罪人ゆえに、一時的な幸せ、成功があっても、霊的問題ゆえに世のむなしさに苦しみ、めちゃくちゃになっていた、そのときに愛してくださったのです。神様を知ることに対して、感覚がまったくない、分かろうともしない、そのような私たちを一方的に愛してくださいました。私たちのレベル、行い、所有、人格など人間の何かとまったく関係なく愛してくださったので、劣等感や比較意識に捕らわれる必要はまったくありません。
神様の愛は、罪の運命から完全に救い出す救いの愛です。信じるようになったときには、すでに暗やみから光に神様が移してくださり、信仰を与えてくださっているのです。そして、イエス・キリストを信じることによって、神様の愛はすべて注がれるようになりました。
私たちのほうには条件はありませんが、神様は義なる方なので、罪を赦すために神様ご自身が犠牲を払ってくださった、犠牲の愛です。御子を惜しまずに私たちのために犠牲にされました。イエス・キリストの犠牲によって、私たちの問題は、根本的に、実際的に解決される力の愛なのです。滅びるはずの私たちの代わりにあがないの犠牲のいけにえとなってくださいました。イエス様が十字架の子羊となってくださったので、感情にとどまる程度の愛ではなく、私たちには具体的にいのちを与えられ、神の子どもに変えられる、力がある愛なのです。
また、神様の愛は永遠の愛です。最後の最後まで永遠に変わりません。ですから、安心しても良いのです。自分の弱さがあっても、神様の愛は変わりません。いつまでも、何があっても、どんなときでも、キリストにあって捕えられた愛は変わることがなく、神様の御手から奪うことはできるものはありません。今日の聖書でイエス様が弟子の足を洗ってくださったときに言われたように、救われた者はもうすでに全身がきよいのですが、世の中は創世記3章の世界なので、肉や古い体質、弱さ、失敗などで足が汚れるようなことがあります。しかし、その足も、イエス様が洗ってくださいます。神様は最後の最後まで責任を持って守って、導いてくださいます。神様の愛はあきらめることはありません。私があきらめたとしても、神様があきらめられることはなく、なにものも切り離すことができない愛なのです。
ですから、神様の愛を疑ったりせず、飛びこんで神様の愛に溺れましょう。世の中の愛の概念とは根底からまったく違うので、神様の愛から新しい愛の人生を始めましょう。そして、自分の弱さを神様の愛で赦す人になりましょう。自分では赦せなくても、神様の愛を根拠にして赦しましょう。そして、他の人の問題も、神様の愛を持って赦し、助けることのできる人になりましょう。
人に愛を求める人生を終わりにして、自分に与えられた神様の愛をもって分け与える者になりましょう。愛を分け与える最高のかたちが福音宣教です。福音を伝えることこそ、愛の中の愛です。神様の愛をたっぷりと味わい、その愛を分け与える人生となるようにお祈りします。