日曜メッセージ要約版

教会の講壇メッセージ動画は、レムナント教会のサイトに出ています
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メッセージ要約版

5月1日

罪なき囚人イエス(ヨハネ19:10-16)
環境が厳しく、困難があると、心が折れてしまい、ダウンすることが多いです。私たちは、そのような人々を助けるために召されたので、そのような時にも、クリスチャンとして世の人が知らない力を味わって体験する機会にするために、方向をイエス様に向けましょう。イエス様を知る分、この世が知らない感謝で満たされるようになり、まことの神様の答えを知る道へと導かれるようになります。
 今日の聖書箇所は、イエス様が裁判にかけられる場面です。ローマの総督ピラトがどんなに調べてもイエス様には罪がないと言いましたが、ユダヤ人たちはどうしても有罪にして殺すように要求し、不当な裁判の結果、有罪判決が出されたのでした。その判決にイエス様はひとことも反論せずに従われました。なぜ罪のないイエス様が有罪とされたのでしょうか。
 それは罪ある私たちのかわりに罪人となってくださったからです。私たちが罪人なので、その罪をかぶってくださるために、有罪の判決を受けなければならなかったのでした。私たちはみんな、気がついていなくても罪人です。創造の神様を否定して、本当の神様ではない偶像を作って、文化、伝統にしてきた先祖の罪があります。また、自分で心をきよくしようとがんばって、一日3回しか罪(罪過)を犯さない天使のようだと言われる人でも、一年で千回、一生にはものすごい数の罪を犯すことになります。その罪は、小さい罪でも大きい罪でも裁かれるようになっています。また、自分とは関係なく、生まれながら持っている原罪があり、すべての人が罪人だと言われています(ローマ3:23)。罪から来る報酬は(ローマ6:23)なので、人格やレベル、品性などまったく関係なく、災いにあい、トラブルや病気をわずらい苦しみ、悩みつつ生きていき、死後は地獄に行くしかないのです。その私たちの罪をかわりにイエス様が死んでくださいました。ですから、イエス様は罪なき囚人となってくださったのです。
 また、イエス様は神様の愛を実現するために、罪なき囚人となられたのです。神様はそのひとり子をおあたえになったほどに世を愛されました(ヨハネ3:16)。その神様の無限の愛を分かっておられたので、イエス様はひとことも反論せずに、十字架の判決を受けられたのでした。それが神様の愛を実現する道であり、それによって神様の愛を明らかにしてくださったのです(ローマ5:8)。それゆえ、不当な裁判を許してまでも、神様の愛を示されました。
死刑の判決は、罪人が救われるための、絶対的な救いの道なので、だまってその判決を受けてくださいました。サタンにとらわれ、のろいの運命の中にいる罪人の私たちには、十字架以外は救いの道はないので、神様はすべてを働かせて、十字架の判決を出すようにされたのです。ユダヤ人たちの言動、ピラトが出した判決でしたが、すべて神様が主権を持って救いのために許されました。神様の主権の理由は、救いなのです。私たちは、良いか悪いか、正しいか正しくないか、楽しいか苦しいかを基準にしますが、神様の唯一の基準は救いです。救いがどれほど大きい祝福なのかを、今日の罪なき囚人イエスの姿を見ることによって知り、救いを人生の中心にしましょう。
罪のないイエス様が私の罪のために有罪判決を受けてくださいました。このことを通して、救いの絶対的な確信を持つようにしましょう。救いは不可抗力的な神様の恵みによりますから、揺れることなく、なにによっても奪われることがない救いに対する絶対的な感謝をささげるようにしましょう。これがクリスチャンのスタートです。不当な裁判も、救いと伝道のためでした。これからは、すべてのことを救いと伝道中心に見るように見方を変えましょう。罪なき囚人イエスのメッセージをにぎって、すべてをすっきりと救いと伝道中心に見て整理して勝利するようになることをお祈りします。