日曜メッセージ要約版

教会の講壇メッセージ動画は、レムナント教会のサイトに出ています
http://jremnant.net/


メッセージ要約版

5月15日

すでに死んでいるのを認め(ヨハネ19:31-42)
 なぜイエス・キリストは死ななければならなかったのでしょうか。特に今日の聖書箇所では、死ななければならなかったことが強調されています。イエス様の十字架の死と自分とが、なんの関係もないのは、とても残念なことで、かわいそうであり、また、おかしいことになります。イエス様の死と自分とが結びつくときに暗やみから解放され、光の人生のとびらが開かれるようになるはずです。
 今日の聖書を見ると、十字架につけられた日が安息日の備えの日でしたが、当時のユダヤ人たちは安息日には死体が十字架にあってはならないとしていたので、その日のうちに十字架の上の人を殺す処置をしたのでした。十字架刑というのは、すぐに死なない刑罰なので、イエス様以外の2人は生きていたので、すねを折って殺したのです。しかし、イエス様のところに来たら、すでに死んでおられたので、すねを折りませんでした。そこで、兵隊の一人がわき腹を槍で突き刺したところ、血と水が出てきたのでした。つまり、イエス様は完全に死んでおられたという証拠です。そのあと、アリマタヤのヨセフが、イエス様をお墓におさめたということも、イエス様は本当に死んでおられたということです。
 イエス様は本当に死なれました。イエス様は、死なれなければならなかったのです。その理由は、死ぬことだけが罪の問題の解決の唯一の道であり、方法だったからです。罪から来る報酬は死です(ローマ6:23)と書いてあるように、人間の罪は、罪のないメシヤが死ぬしか解決法はありません。血を注ぎ出すことがなければ罪の赦しはない(ヘブル9:22)と言われていますが、「血を注ぎ出すこと」は「死」を意味するのです。多くの人々が罪を軽く考えて、人間のなにかで解決できるかと思うのですが、人間の罪はそのように簡単なものではなく、罪のないメシヤが私たちの代わりに死んでくださるしか解決しないのです。それは、最初から最後まで聖書で語られています。最初にアダムが罪を犯して、自分たちなりにイチジクの葉で覆って隠そうとしたのですが、そういうことでは解決しないと、神様が羊を殺して血を流して皮の衣を作ってくださり、罪の解決はメシヤが死ぬしかないことを教えられたのでした。女の子孫が来て蛇の頭を踏み砕くが、そのときにかかとにかみつかれて血を流して死ぬ、それだけが罪の赦しであると言われ、イスラエルの民はずっと羊を殺していました。十字架でイエス様が死んでくださることによって、そのすべて完成してくださったのでした。
 では、もしイエス様が死ななかったら、どうなっているでしょうか。イエス様の死がなければ、救いはただの空想話になり、私たちは、いまだに罪とのろいの中で、サタンの手につかまったまま、神様の御怒りを受けるべき子のままでいなければなりません。どんなに良い人、良い行いをしても、なにをしても、さばかれて地獄に行くしかない人生なのです。ですから、イエス様は必ず死ななければなりませんでした。
 そして、まちがいなくイエス様は死なれました。それゆえ、だれでも主の御名を呼びさえすれば救われるようになったのです。御名を呼べば、滅びる運命の過去は十字架とともに死んで葬られ、消えます。そして、イエスの御名を呼べば、神様との間の幕が裂かれて、神様の祝福が流れるようになったので、神様の御前に出ることができ、神様のすべてが私のものになります。滅びの過去ではなく、神様との生きた新しい道が開かれ、新しい人生が始まります。もう他のことは気にする必要はなく、ただ、イエス様の死によって、過去は消え、新しい道が開かれて祝福が自分のものになっていることに集中しましょう。そして、救いとその祝福を思う存分に喜び楽しみ、味わいましょう
 イエス様の死は、どんな悩みや問題よりも大きな祝福です。自分の過去をすべてイエス様のお墓の中に葬ってしまいましょう。そして、疑わずに大胆に、神様の祝福を味わい、思い切り神様と交わり、喜ぶ時間を持つようにしましょう。そのように祝福を味わい、いまだにその祝福を知らないゆえに、疲れて重荷を負っている人たちに、イエス様の御名を呼ぶ祝福を伝えるようにしましょう。