日曜メッセージ要約版

教会の講壇メッセージ動画は、レムナント教会のサイトに出ています
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メッセージ要約版

6月26日

結論あるクリスチャン(ヨハネ21:25)
 ヨハネの福音書の最後になりました。いったいヨハネの福音書には何が書いてあって、どのような結論をキャッチするのか、私たちのこれからの信仰生活にどのような意味を持つのかをよく考えてみたいと思います。ヨハネはイエス様がたくさんのことを行われたが、その中から必要なことを選んで書いたら、このヨハネの福音書になったと書いています。いったいどんなメッセージ、そんな目的のために選ばれたのかを見て、私たちの人生を整理していきましょう。
 まず、ヨハネは世の中はやみにおおわれているということを書きました。これを私たち自身の結論として握りましょう。世の中は外見はどうであれ、やみにおおわれていて(ヨハネ1:5)、父である悪魔とも言われているように、目に見えない悪魔が握っている暗やみの世界なのです(ヨハネ8:44)。その証拠として、人々は偶像に走り、教会ですら宗教になってしまって、教師であるニコデモですら宗教なのです。水がかきまわされたときに入るといやされるというような迷信にとらわれ、霊的なことは分からずに肉しか理解できません。奇跡を行われても、肉のパンは欲しくても、霊的な「いのちのパン」の話になると去って行くのです。やみである証拠に、神様を拒否します。その結果、人間ではどうしても解けない葛藤苦しみに捕らわれ、悲しみ、不安の中でさまようだけです。その様子が、死の悲しみに捕らわれている人々や、5回も結婚して6回目は入籍もできない女の人、38年もの間病気の人の姿などを通して書かれています。一番の証拠は、イエス様を十字架にかけて殺してしまうほど、やみに捕らわれているのです。
 その次にヨハネが書いた目的は、イエス様はそのやみの世に光として来られたとメシヤだいうことです。光のメシヤだということを証明するために、さまざまな問題をいやされました。38年間もなおらなかった人をみことばをもっていやし、5つのパンと2匹の魚で5千人も食べさせ、姦淫の女が律法で捕らわれていた現場でゆるして助けられ、生まれつき目の見えない人をいやされ、死んでいたラザロを生きかえらされました。光として来られたというあかしに、神殿をきよめ、海の上を歩き、過越の祭りの主人公は自分であると言われました。そして、決定的な証拠として、預言どおり、身代わりになって十字架ですべてを完了したと宣言して死なれ、3日目に死者から復活されたのでした。このようにヨハネが「イエス様が光だとあかしするため」に書いたものを通して、それを自分の結論としましょう。
 それから、そのイエス様を信じて受け入れるとどうなるかを書いています。信じて受け入れると神の子どもになります(1:12)。新しく生まれて、永遠のいのちの祝福にあずかるようになるのです(3:16、5:24)。だれでもイエス様を信じて受け入れるだけで、このようになります。ですから、イエス様のところに来て、イエス様が光だと認めて、悪魔の子から神の子どもになりなさいとヨハネは語っているのです。そして、信じたとたんに神の子どもとなり、祝福の存在になり、光を照らし、暗やみの世を変え、人々を生かす使命ある人生に変えられるのです(21:15-17)。これは、信じたとたんに、すべての人に与えられることで、光であるイエスを受け入れると、内に光があるので、存在そのものが伝道者となるということです。この最高に価値がある祝福の人生、伝道者であるということを自分の結論にしましょう。
 これが聖書に書かれていることであり、ヨハネの福音書が書かれた目的です。自分のこととしてアーメンと受け入れ、イエス様にあって、自分の人生を整理しましょう。なにがあっても揺れない神の子だという確信をすべての基礎にしましょう。そして、伝道者としての確信と自負をかたく揺れずに持つようにしましょう。
 世界で一番最高に価値がある伝道者としての輝く人生になったことに結論をまとめ、スタートする結論あるクリスチャンになることをお祈りします。