日曜メッセージ要約版

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メッセージ要約版

7月17日

真の喜びの基準(ルカ1:5-17)
 私たちは、自分も気がつかないうちに、信仰が良い人はすべてがうまくいき、肉的にも祝福されるという思いがあります。しかし、現実がそうでないので、葛藤につながる場合が多いのではないでしょうか。今日の聖書箇所に出てくる祭司ザカリヤを見ながら、そのように固まってしまっている考えと内側にもっている基準を変えるようにしましょう。
 まず、クリスチャンの喜びの基準は肉にあるのではないことを覚えましょう。祭司ザカリヤは、神の御前で正しい、すばらしい信仰者だったと紹介されています。しかし、子どももなく年をとっていたのです。聖書を見ると、ヨセフは父よりも兄たちよりも良い信仰で、契約を握っていたのにもかかわらず、兄たちよりひどい試練に会いました。また、ダビデは信仰がない時代にキリストの契約を握っているすばらしい人だったのに、死の陰の谷を歩むような状況になりましたし、パウロも世界福音化に用いられるほどの信仰があった人でしたが、石打ちにあい、刑務所に入れられました。これらは、世の中にある因果応報の考え方からすると、理解できないことでしょう。
ザカリヤに天使が現れて子どもが与えられ、喜びとなると伝えました。しかし、その喜びは私たちが考えているような肉的なものではありません。神様の理由があり、それはイエス様のためということです。
イエス様が喜びの基準なのです。天使は、与えられる子どもの名をヨハネとすることと、その子は主の前にすぐれた者となり、民の用意をすると言いました。多くの人がイエス様を知るようにさせる役割をするため、喜びになるのです。イエス様のことを正しく知り、イエス様を知らせることが、まことの喜びです。パウロはそれゆえ、刑務所の中でも外でも関係なく喜びました。神様は、すべての歴史をイエス様を中心にして動かしておられます。ですから、私たちの喜びの基準をイエス様に変えてしまいましょう。イエス様に益となるなら、ステパノのような殉教も許されます。イエス様に有利か不利か、これが基準です。たとえ、自分にとってはつらいことでも、イエス様の方に向く機会になるなら、祝福であり、喜びなのです。
なぜなら、イエス様だけがキリストだからです。イエス様だけが死と運命から出られないようにさせているサタンを力を打ち破り解放できる唯一の方です。イエス様がでなければ、神を離れてたましいが死んでいる私が神様との関係を回復することはできません。イエス様だけが神様を信じることを捨てた罪をゆるすことができる唯一の方なのです。イエス様だけがまことの王、まことの預言者、まことの祭司で、唯一の人生の答えなのです。ですから、このイエス様とからむことがまことの喜びなのです。
 すべてのことがイエス様を知り、イエス様を知らせることにからんでいるゆえに喜ぶように、喜びの基準を変えましょう。つらいこと、足りないこと、苦しみなどは基準ではありません。肉の答えの有無への葛藤を捨ててしまいましょう。そして、信じている契約の信仰があるかどうかを確認して、イエス様を基準にして伝道が結論として出るまで信仰を守り通しましょう。信仰が確認できるなら、クリスチャンにとっては、すべてが答えです。よけいな所を見るのではなく、まっすぐに神の国を見て、期待しながら聖霊充満の祝福に集中して、のめりこんでいきましょう。神様にすべてをまかせ、イエス様にからみ、イエス様を伝えることを基準としていくようにお祈りします