日曜メッセージ要約版

教会の講壇メッセージ動画は、レムナント教会のサイトに出ています
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メッセージ要約版

9月18日

イエス様を正しく分かれば(ルカ2:41-51)
 同じ問題を見ていても、見方によって結果は天と地の違いになります。問題によって、挫折して人生のどん底に落ちてしまう人もいれば、逆に成功に向かう人もいます。問題が問題というより、どのように見るのかが大切なのです。クリスチャンである私たちは、問題に出会ったときに、本当の問題は「信じて受け入れ、ともにおられるイエス様が良く分かっていなことである」ということを今日の聖書箇所から知るようにしましょう。
 今日の箇所は、天使の預言どおりに生まれたイエス様が12歳の少年になったときに、両親とともにエルサレムに過越の祭りを守りに行き、帰るときにいなくなってしまったので、両親が心配してあちこち探し回り、1日の距離の道を3日も苦労して探したあと、エルサレムに戻って神殿にいるイエス様を見つけたという場面です。イエス様が神殿で立派な先生と言われる人々とやりとりをしているのを見た両親が「なんということをしたのか。どれほど心配したか」と言ったところ、イエス様が「どうしてわたしを探したのですか」と答えられました。これは、「あなたがたは、まだわたしのことを分かっていないのですね」ということです。
 イエス様は神様が約束されたメシヤです。ですから、おられるべきところは、神殿なのです。まだ時刻表ではないので、両親とともにナザレに戻られましたが、本来は神殿にいるべきお方でした。それが分からなかったので、両親は心配になり、あせり、不安に思って探し回り、いらない苦労をしたのでした。同じように、私たちも、ともにおられるイエス様がよく分からないことが問題なのです。なにかのせいで問題だというのは、だまされていることで、フォーカスは私とともにおられるイエス様が分かっているかどうかということです。
 イエス様は罪を犯した人間に約束された救い主メシヤですから、人間ではどうしようもなかった問題を根本から解決してくださる方、キリストです。また、イエス様は、罪人である私をどれほど神様が愛してくださっているかを示された、神様の愛そのものなのです。罪人の私のために世の中に来られ、十字架を背負い血を流すことによって、私のために代価をすべて支払ってくださいました。「完了した」と言われたように、すべての問題を解決してくださったのです。そして、神様であるという証拠で復活された主です。
 イエス様のことが正しく分かるならよけいな苦労、さまよいはなくなります。そして、目の前の問題の解決をはかるより、すでに問題は解決されていると告白するようになるはずです。また、私のために十字架で血を流された愛を知るなら、その愛が今もなお注がれているので、愛を求めることはなくなり、愛されていると確認するようになります。才能や条件、環境とは関係なく、天にあるもので幸せであると告白するようになります。言いわけやつぶやきではなく、聖霊に満たされることを期待して、待ち望み、祈るようになるでしょう。ポイントをイエス様がどれほど分かっているかということに置くようにしましょう。
 しかし、私たちにはイエス様をぼやかすものがあります。イエス様の両親は、赤ん坊から育てていたので、肉的な内容で、イエス様が見えなくなっていました。私たちは親、信徒、教会を通したイメージによって、正しくイエス様を知ることができない場合があります。それらのイメージを通さず、自分とイエス様と、一対一で真正面で向かい合って立つようにしましょう。私自身のキリストを知るようにしましょう。ダイヤがごみに包まれていた場合、ゴミを見てダイヤが分からない場合があります。そのように、イエス様のイメージを与えるなにかをイエス様とからめるのではなく、イエス様をイエス様として正しく理解するようにしましょう。
 まず、イエス様をぼやかすなにかがあれば取り除くようにしましょう。そして、自分のためのイエス様ということを回復して、問題のポイントを問題自体ではなく、イエス様を知っているかどうかという方に向けるようにしましょう。そして、それが本当に分かるなら、聖霊充満を味わうことを祈って待ち望むようにしましょう。問題はすべてイエス様が終わらせてくださいました。イエス様の方に立つ一週間になることを祈ります。