日曜メッセージ要約版

教会の講壇メッセージ動画は、レムナント教会のサイトに出ています
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メッセージ要約版

12月4日

安息日の主であるイエス様(ルカ6:1-11)
 世の中の人はお互いが引っぱりあって、結局、自分も崩れて行きます。それは、お金や物がたりないからではなく、人間に不可欠なまことの安息、安らぎがないからです。人間にとってまことの安息と安らぎは、かけがえのない、他のなによりも大切なものです。では、どうすればその安息が手に入って、自分のものとして味わえるようになるのでしょうか。
 ユダヤ人たちは、神様が定められたので安息日を徹底的に守っていたのですが、安息はありませんでした。しっかりと守れば、まことの安らぎが得られると思って、安息日には仕事をしてはならないと決めて守っていました。そして、神様を喜ばせるために、数多くの決まりを定めて、細かく、徹底して守っていたのです。50歩以上歩くことは仕事だとするというような、とても細かい基準も決めました。そのようにして、自分なりにがんばっていたのですが、安息も安らぎもなかったのです。それは、安息日に対して誤解していたからです。
 人間は他の被造物と違って、神様の代わりにすべての被造物を管理するようにたましいのある霊的な存在として創造されました。神様の栄光を表し、被造物を管理するために、神様からのまことの安息と安らぎが必要で、その安息と安らぎを武器や力にして、すべての役割をまっとうするように創造されたのです。ところが、サタンにだまされて罪を犯し、神様から離れたとたん、その安息、安らぎをすべて根本から失ってしまったのです。
神様は6日間創造のわざをなさったのですが、5日間「見て良し」とされ、6日目には「非常に良かった」と創世記1章には書かれています。その次の7日目に神様が休まれたと書いてあるのですが、それは神様が疲れたからではありません。創造されたことが、神様の意図どおり完ぺきなものだったという意味なのです。安息の本来の意味は、神様ご自身、また、神様がなさるすべてのことは完全、完ぺきで永遠だということで、それ以上、手を加えて工夫する必要がないということです。
 その神様から離れてしまい、すべてを失った人間でしたが、神様は人間を愛しておられるので、まことの安息を与えるために、罪をゆるし、サタンを打ち破り暗やみから救うことを約束してくださいました。それが創世記3:15の約束で、キリスト(メシヤ)を通して、この安息を取り戻すことができるということです。安息日は、本当の安息はキリスト(メシヤ)によって与えられるということを確認するために、キリストを思い出して待ち望むために与えられたのでした。仕事をしないように言われたのは、仕事によってなにか加える必要はなく、ただキリストだけだということを思い出すためでした。
 そのキリストであるイエス様が来られたのです。イエス様の中にのみまことの安息があります。なぜなら、イエス様はキリストだからです。イエス様を信じる者は、律法とのろいから永遠に解放され、安息の主である神様が永遠にともにおられるようになります。神様は完全で完ぺきな方で、神様がなさることも完全、完ぺきですから、救いの祝福も完全で完ぺきです。その中にいると、すべてのことを働かせて益とされるのです。
規則を作って守ることでは得られないまことの安息が、イエス様を信じることによって得ることができます。規則は必要なことですが、安息を得ることはできません。
 イエス様が来られたので、キリストが来られるのを待ち望むために守っていた安息日は終わり、聖なる仕事をする安息日になりました。イエス様を信じることが安息日を守ることです。イエス様の中にある消えない安息を喜び、自分のものとして豊かに味わうことだけが残っています。イエス様を信じる前までのことは、イエス様に向かうためにあったことで、イエス様が来られたらすべては終わりました。いまもまだ、安息がなくさまようたましいと現場を見て、神様のまことの安息があるようにと願い祈ること、そして、神様のみこころであるいのちの運動が起きるようにと祈ることが安息日を守ることなのです。
イエス様の中にあるまことの安息を味わう祈りの時を持ち安息日を誤解している人々を助け現場でいのちの運動が行われるように祈る者となるようにお祈りします。