日曜メッセージ要約版

教会の講壇メッセージ動画は、レムナント教会のサイトに出ています
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メッセージ要約版

2012年1月15日

棺に手をかけられると(ルカ7:11-17)
 神様の恵みでイエス様を救い主として信じた神の子どもの私たちは、自分が思っている以上に幸いな者です。自分がどれほど祝福され愛されている奇跡の者なのかという確信を持ち、感謝を持って祈るようになると、神様からの力によって感動が与えられるようになります。そうすれば、無理やりではなく、自分から志願して神様を求め、仕えるようになり、それによって喜んでささげ、献身するようになります。そのようになる鍵が、イエスがどういう方かが分かることです。イエスをしっかり知り、心に留め、キリストにあってみことばを深く考えていると、確信が与えられるようになるのです。
 今日の聖書箇所では、やもめのひとり息子が死んだ葬儀の列で、イエス様が棺に手をかけられ、その流れを止め、死んでしまった青年を生き返らされた場面が出てきます。そこから、イエスをどういう方なのかを見つけましょう。
 まず、私たちが考えるべきなのは、だれにも止められないのろいの流れがあるということです。夫が先に死んでやもめになっていること自体、その当時のイスラエルではのろわれた人生だと思われていました。そのやもめのひとり息子が死んだのです。これは、やもめの話ではなく、私たちすべての姿です。悲しみの涙を流し、絶望のなげき、あきらめのため息をつくしかないのろいの流れは、だれにでもある創世記3章から始まったものです。神様のかたちとして創造され、祝福され、栄光をあらわす存在だったのが、神様から離れ、悪魔に聞き従う罪を犯してしまいました。その結果、のろいの流れに入ったので、なにがあっても、どんな人も、どんなに努力をしても止めることはできません。家庭の崩壊(創4章)、人々は豊かになっても偶像崇拝に走って大きな災いが押し寄せてきます(創6章)、どんなに成功したかのようでも、いっぺんにバベルの塔のように崩れるしかありません(創11章)エジプトの奴隷となり、バビロンの捕虜になり、ローマの植民地にされます。
 そのようなだれにも止められない、すべての人にあるのろいの流れが、イエスが棺に手をかけられたときに止まりました。そこで、死の力にやられている人に、起きよと言われ起きあがらせることによって、死の力、のろいの運命の力を完全に切られたのです。イエスはのろいの運命の流れを止め、死の力に勝つことができるキリストなのです。悲しみ、あきらめ、絶望の人生を止めてしまうことができる唯一の方です。イエス以外には、その流れを止めることはできないので、なにがあっても、まずイエス・キリストがどういう方なのかをより深く知る機会にしましょう。イエスだけで十分なので、優先的に考えるようにしましょう。
 のろいの流れを切られ、死の力から解放されたことが幸いなので、イエス以外のことで劣等感や優越感を持つ必要はありません。イエスと出会ったかどうかが、幸せの基準なのです。イエスを信じる者が幸せなのだと確信を持って祈っていれば、あとのことは神様がなさいます。イエスが自分の人生に手をかけてくださって、すべてのだめなことは終わったことを確認しましょう。イエスと出会い、イエスを信じると、人柄など関係なく、死と罪の原理から解放されます(ローマ8:2)。そして、死からいのちに移り(ヨハネ5:24)、すべてが新しくなります(Uコリント5:17)。イエスは私たちのかわりに十字架でのろわれてくださったので、私ののろいの運命は終わったのです(ガラテヤ3:13)。内側に神様ご自身である聖霊が住まわれるようになります(Iコリント3:16)。だまされずに自分はのろいが終わった、不幸はもうないと握っていると、神様の答えが現れ、どんなことにも神様の良い計画があることが見えます。すでに恐怖の霊ではなく、子どもとしてくださる霊を受けていて(ローマ8:15)、世界にあかし人として立つために、のろいをなくして御霊が入ってくださいました(ガラテヤ3:14)。ですから、問題があってもそれは私たちが知らなくても良く、ただ聖霊に集中すればよいのです(使徒1:8)。毎日、自分の人生にイエスが手をかけてくださったことを確認しましょう。
 自分自身のために、イエス・キリストと講壇のみことばを黙想しましょう。みことばの力を体験して、確信と感謝が生まれるまで聖霊の導きを求めましょう。すでに現場を生かす存在になっているので、現場に行ってプライドを持って祈りましょう。そのために教会や兄姉のために祈りましょう。まず、祈りを通して自分をいやしていくと、現場が見えるようになり、教会と信徒の大切さが分かるようになります。イエスがのろいを切ってくださり、自由を得られたことに感謝と感激がわきおこる一週間になるように祈ります。