日曜メッセージ要約版

教会の講壇メッセージ動画は、レムナント教会のサイトに出ています
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メッセージ要約版

2013年1月27日

福音の核心に目覚めて(ルカ18:31-34)
  世の中の多くの人々が苦しみの中で答えがなくさまよい、悩みがあっても隠して生きて行っています。その人々にまことの答えを与えて助ける者として、神様は私たちを召されました。福音、特に核心の内容が自分のものになるとき、どのような限界、弱さ、無力さも崩れ去り、現場を生かし勝利する主人公として立つことができます。
 今日の聖書箇所では、3年間イエス様に同行してきた弟子たちに、イエス様が福音の核心部分を語られたのですが、弟子たちには隠されていて分からなかったという場面が出てきます。このように福音の核心が隠されていて、なにひとつ理解できない場合、自分の限界にぶつかるようになります。弟子たちは、イエス様の十字架の前にみんな逃げ出して、限界を見るようになったのです。このように核心を隠すのは、サタンがしていることです。未信者には十字架のことばが愚かに聞こえるようにさせ、信徒には、十字架が自分の核心にならないように隠してしまうのです。私たちも、十字架の核心が隠されてしまって、自分の限界や無力さに引っかかり倒れてしまうことはないでしょうか。今日、しっかりと十字架と復活の核心を自分のものとして、未信者と同じ世界を抜け出して、神の国の別世界の祝福の中に入っていくようにしましょう。
 なぜ十字架と復活の核心が自分のものにならないのでしょうか。それは、罪がなにか、そのおそろしさを知らないからです。罪の理解にはいくつかありますが、法的になにかきまりを破ったり、その条件に満たない場合に罪だと言う場合があります。それは、世の中の法律もそうですから、刑務所に入って裁かれれば良いものです。それではなく、道徳、倫理、良心的に引っかかると罪責感や良心の呵責で苦しむことがあります。これらの罪には十字架はいりません。聖書の語る罪はもっとおそろしいものなのです。聖書の罪は霊的な罪です。ローマ3:23に、すべての人が罪を犯したと書かれている罪は、神様との関係が完全に壊れたことを言っています。創造のいのちの根源である神様との関係が崩れ、神様の祝福がまったく届かなくなったことが罪です。いのちを失い、運命と死の力にとらわれ、肉の死後はさばかれて永年の滅びに行きます(ヘブル9:27)。生まれながら神様と敵対していて、いつわりの父であるサタンにとらわれ支配されているのです(ヨハネ8:44)。それゆえ、生きている間は苦労と災いが続くしかありません。この罪を理解するなら、ほかのなにも関係なく、ただ神様の恵みとあわれみしかないことが分かるようになります。人間では絶対に解決しないことだからです。しかし、これが分からないと宗教的になにかの努力や、自分でなんとかできるように思ってしまうのですが、罪はそのような次元の問題ではありません。
 このように罪のまことの深刻さやおそろしさがわかると、結論として、世には希望はないことが分かるようになります。ただ希望は、神様の恵みと救い、ゆるしだけだと分かるようになります。神様は義なるお方なので、罪をそのままにしてゆるすことはできません。それゆえ、罪のない神様ご自身がキリストとなって、かわりに罪を背負って罰せられ、神様の義を満たすことしか方法はないのです。唯一の方法であるあがない、身代わりとして神様が罰せられてゆされる道を開いてくださいました。それは、アダムとエバが罪を犯してすぐに創世記3:15で預言されたとおり、最初からずっと約束されてきたことです。このあがないの奥義が、救いの秘密です。そして、そのあがないの完成者のキリストがイエス様なのです。十字架は、あがないの完成のみわざです。あがないの完成を証明されたのが復活です。罪のことを理解するなら、ほかのことがすべてなくなり、ただ十字架以外は見えなくなるでしょう。イエス様の十字架以外に方法がないことを分かるのが恵みです。
 イエス様の十字架と復活こそが福音の核心ですから、その核心が自分の核心となるようにとお祈りしましょう。本当に十字架と復活が自分のいちばん中心になっているのかを吟味しながら、神様の前で、自分が罪人であることをすなおに告白しましょう。そして、十字架と復活は自分のためだと認めましょう。それから、罪の人生から新しく誕生した確信を持って、滅びや暗さ、悩み心配の人生は終わって、新しい神の子ども祝福の民としての人生になっていると確信しましょう。十字架と復活が人生の中で絶対的、最高のものとなり、中心に刻印されるように、自分の核心となるように、聖餐の告白をもって始めましょう。そうして、復活の人生として、新しい神の国の祝福に取り組むようになることをお祈りします。