日曜メッセージ要約版

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メッセージ要約版

2013年2月3日

止められない叫び(ルカ18:35-43)
   私たちが世の中を生きて行く中で、捨てるべきことと、捨てたりあきらめたりしてはいけないことをわきまえることができるなら、賢く知恵をもって生きて行くことができます。捨てるべきことを大胆に捨てて、あきらめてはいけないことにチャレンジしていくことが、まことの勇気と言えるでしょう。では、なにを捨てるべきで、なにをあきらめてはならないのでしょうか。
 今日の聖書箇所では、イエス様がエルサレムに向かわれる途中のエリコの町でのできごとが出てきます。イエス様はこれから十字架にかけられるためにエルサレムに行かれる時でしたから、イエス様にその町で出会うのは最後の機会だったのです。そのときに、目の見えない人が「ダビデの子イエスよ。私をあわれんでください」と叫び続け、イエス様が立ち止まられて、その人をいやされたのでした。これは、たんに目が見えないのをいやされたということではありません。その当時、目が見えないというのは、のろわれている運命だと言われるようなことだったのですが、そののろいの人生の運命から救い出されたということです。
 その人はイエス様に向かって叫び続けました。それは、イエス様がどういう方か正しくわかっていたからです。イエス様がどういう方なのか分かるなら、叫び続けることをあきらめることはありません。イエス様は唯一の希望だからです。旧約聖書にはいろいろなできごとが書かれていて、奇跡も災いも描かれています。その中で、すばらしい指導者も王もいて、人々は律法を守ろうと努力もして、人間ができることすべてしたのですが、それでも、人間は絶望に終わるしかないという事実が結論で出ています。どこを見ても希望はありません。私たちの人生を見ても、どんなに工夫してがんばっても、まことの幸せを手に入れることはできないのです。そこで、神様が唯一の希望であるイエス・キリストを送ってくださいました。絶望の中で、唯一の希望がイエス様ですから、イエス様に向かって叫び求めるしかないのです。イエス様は唯一の希望、絶対の希望、そして最後の希望です。イエス様を呼び求めることは、だれも止めることはできないのです。
 しかし、サタンがイエス様を呼び求めることを妨害するので、人生の中には妨害することがたくさんあります。自分の中から、やめてもよいという理由が出てきます。弱さ、失敗、無能さ、みじめさ、そんな資格はないから、呼んでも仕方がないと思うのです。それは呼び求めるのをやめる理由にはなりません。かえって、それゆえに呼び求めるべきなのです。また、外からの妨害があります。今日の聖書で、目の見えない人を弟子をはじめ、他の人々が止めたように、回りの人が先入観を持って迫害したり、教会を見てつまずいて離れてしまうこともあります。しかし、どんなことがあっても、イエス様以外には希望はないのですから、どんな妨害があっても、イエス様を呼び求めるのをやめる理由にはなりません。
 イエス様を呼び求め続けた目の見えない人の前にイエス様が立ち止まられ、まことの救いの祝福を与えられました。イエス様を信じれば、目が見えるだけではなく、根本的な運命の力から解き放たれます。罪と死の原理から永遠に解放され、神様が聖霊を通して中に住んでくださる神殿となり、天にあるすべての霊的な祝福が注がれ、死後に永遠の天国に行くことが保証され、地上にいる間、神の国が臨んで、その人を通して神の国があらわされる主人公となります。主人公ゆえ、聖霊のバプテスマが注がれますから、どんなことがあっても、必ず勝利するようになるのです。これはイエス様を信じたとたんに与えられる祝福です。つまり、完全に新しい人に変えられるのです。
 今週一週間、自分がイエス様の御名を呼び求めているのかをよく考えてみましょう。そして、呼ばない理由はなにかも考えましょう。呼ばない理由があるなら、大胆に捨てて、イエス様を呼ぶことを回復して、あきらめずにイエス様の御名を呼び続けることを習慣にしましょう。宇宙にイエス様を呼ぶことをやめる理由は存在しません。いつも優先にして呼び続けると、イエス様の中に救いの祝福が待っています。救いの祝福が見えると、正しい選択ができるようになります。「聖餐の告白」を告白し続けましょう。使徒1:6-8が自分の胸に伝わるようになり、ただ、聖霊が臨まれれば証人になるという約束があきらかになり、1:14のように祈りに専念するようになります。そのように集中して祈り続けられるようになるまで、イエス様の御名を呼び求め続けましょう。どんなときでも、御名を呼び求める定位置にいる一週間になることを祈ります。