日曜メッセージ要約版

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メッセージ要約版

2013年5月9日

理解不能な苦しみ(ルカ22:39-46)
  イエス様が十字架を直前にして、オリーブ山で祈られた内容です。神様であるイエス様がどれほど苦しまれたか、それは自分にとってどういうことなのかを知るようにしましょう。
 イエス様は、オリーブ山で祈られたとき「できるなら、取りのけてください」と祈られました。どれほどの苦しみだったから、そこまで言われたのでしょうか。それは、人間には理解することは不可能なことです。イエス様は苦しみもだえ、そのために祈られたとき、汗が血のしずくになるほどだったと書かれています。十字架刑が苦しかったということではなく、神様ご自身が、罪人と同じようになられた苦しみは、絶対に人間では理解できません。また、神様がゆるされて行われたことですが、神様がサタンに自分を引き渡されたのですから、その苦しみは、想像できないものでしょう。次元や程度がかなり違う苦しみであったのです。弟子たちですら、理解できず、参加することもできず、悲しみのあまり寝ていたと書かれていますから、だれも理解することも、参加することもできない大きな苦しみで、人間ではまねすることなど絶対にできません。
 しかし、その苦しみは、避けることができないものでした。理解できないほど大きな苦しみだったのですが、避けられない苦しみでした。それは、神様の願いであり、それが神様の愛だったからです。罪人であり、地獄に行くしかなく、神様にそむいて偶像崇拝している人間のために受けられた苦しみであり、それが神様の愛です。罪人が救われる唯一の方法であり、それ以外では、絶対に解決できない人間の問題のための苦しみでした。人間はキリストでないと絶対に解決できない問題があります。イエス様はそのキリストだったので、行くべき道であり、避けられない苦しみでした。みこころであったので、従って行くしかなかったのです。
 このイエス様の大きな苦しみを見て、私たちははっきりと言えます。「十字架の苦しみは私のためであった」と。そして、その十字架による救いは疑う必要がない、十分で足りないことがないものだったと言えるのです。救いの確信を持つようにしましょう。十字架の苦しみを知ることによって、救いは完全、完璧で、十分すぎるものなのだという確信と安心を持って欲しいというのが神様の願いです。すでにその救いは与えられているので、その救いの完璧な祝福からスタートするようにしましょう。十字架の苦しみが理解できないほど大きなものだったので、イエスの御名を呼ぶだけで十分に救われるようにしてくださいました。そして、信じて受け入れるだけで、完全に新しい者となり、死からいのちに移っています。地獄の恐れ、罪のさばきからは完全に縁が切れているのです。自分の過去、いまの弱さなど関係なくなるほどイエス様の苦しみは大きなもので、救いは十分なのです。どんなときも、いつも自分は幸せで、十分だと言えるようになりましょう。
 また、御名を呼ぶだけで与えられる祝福はあふれんばかりのものです。神殿から水があふれ出て、まわりを生かすということが聖書には書かれていますが、そのようにあふれんばかりの祝福を私は味わうことができ、それがまわりにも伝わる(伝道)のは当然なのです。そのような奇跡の人生に変わっていることを知りましょう。
 それゆえ、自分の心で決心しましょう。これからなにがあっても、救われた確信を逃さないようにしましょう。十字架の苦しみを根拠にした救いの祝福なので、なにがあっても関係なく、救いの確信を持つことができ、救いの祝福を味わうことができるのです。すべてをもらっていて、足りないことはありません。キリストの救いで十分ですから、不平不満を持って他に目を向けることは偶像崇拝なのだと救いの確信を持つように告白しましょう。それから、自分自身を認めましょう。自分は条件や環境とは関係なく、祝福された幸せな者だと認めましょう。まだ問題が残っているかのように思えるなら、それは、救いの祝福と神様の力が現われるための材料です。いま現在、自分の中に聖霊がおられます。ですから、イエス様が公生涯3年でなさったみわざと同じことが、自分のまわりに起きると期待して祈りましょう。それに邪魔するのが自分自身なので、取り除くために聖霊充満を求めて祈りましょう。自分が消えさるときに、イエス様がなさったのと同じ奇跡が起きるのを見るようになるでしょう。救いの揺れない確信を持ち、自分を大事に評価するようになることをお祈りします。