日曜メッセージ要約版

教会の講壇メッセージ動画は、レムナント教会のサイトに出ています
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メッセージ要約版

2013年9月29日

真の自由(Iコリント9:19-23)
 イエス様を信じてクリスチャンになったことは、どれほどすごいことなのかを説明するために、とても分厚い聖書があります。そのすばらしさを実際に楽しみ、味わえばよいのです。どれほどすばらしいことかというと、イエス様が「あなたがたがわたしの中に、わたしがあなたがたの中に」と言われたように、三位一体の神様にのみあてはまる表現が私たちに言われています。モーセが待っていたイエス様が私たちの内におられます。イエス様を信じたら、完全に新しい存在になっています。最高にすばらしい祝福された存在なのです。そこに自分が確信を持って味わうことが課題です。
 そのようにすばらしい祝福は、ただイエス様を信じて受け入れるだけで受けることができます。初代教会は小さな群れで、ほとんどが、その当時は人間に数えられなかった女の人ばかりだったのですが、地の果てまで福音化を成し遂げる証人となると約束をもらいました。イエス様を信じた人の中には、神様が聖霊でその人の中に入られるので、内におられる聖霊がなさるから、世界福音化が可能なのです。つまり、イエス様を信じて受け入れた人は、自動的に伝道をする存在になっています。神様が内に住まわれています。エペソ2:6に、ともに天の御座にすでに座っていると言われたように、イエス様の中に私たちがいて、私たちの中にイエス様がおられるので、私たちがいるところにイエス様がともにおられるのです。それゆえ、イエス様しかできない福音宣教をすることができます。
 ところが、そのようなすばらしい身分と使命があることに、私たち自身が気づいていないことがあります。それゆえ、無駄な消耗戦にとらわれてしまうのです。今日の本文でパウロは、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法を持たない人には律法を持たない人のように、弱い人々には弱い人のように、すべての人に、すべてのものとなりました」と言っていますが、これはパウロがクリスチャンの祝福がどれほどすばらしいのかを知って、それ以外のことはどうでも良いと自由になっていたのでした。これこそまことの力であり、かっこいいクリスチャンだと言えるでしょう。クリスチャンは、サタンにとらわれ、暗やみの中に生きている人にとって、唯一の希望です。それなのに、サタンが無駄な消耗戦にとらわれるようにしかけるのです。パウロのように絶対的な基準を持って、無駄な消耗戦から自由になりましょう。
 絶対的な基準はなんでしょうか。聖書で神様が語られていることは、人は神様に罪を犯した罪人だということです。その罪は簡単なものではなく、解決不可能なことです。その罪がどれほどおそろしいものかを旧約聖書から知ることができます。裕福になればなるほど神様から離れる方向に行くしかなく、創世記6章の洪水によるさばきを受けるようになりました。文明が発展して、知恵や知識がすぐれたら、より神様に敵対するようになり、バベルの塔をたてるようになりました。(創世記11章)福音の約束を神様が果たしてくださるために、イスラエルという民族を立てられたのに、契約の民となったイスラエルの歴史を見ると、どんなに神様が導き、愛し、守り、奇跡を見せてくださっても、神様のほうを向こうとしませんでした。本当に人間は希望のない罪人なのです。そのような真っ暗な中の希望は、ただひとつ「キリストだけ」です。絶対的なことはキリストしかないのです。そのキリストがイエスです。ですから、神様はイエスに集中しなさいと言われます。ほかの頑固な枠を崩し、ただイエス・キリストにだけ集中して、そして、そのイエス・キリストが伝えられることにだけ集中しなさいということです。それが絶対的なことです。イエスがキリストであるということ、そして、そのイエス・キリストが伝えられることのために、すべてがあります。その他の枠を崩していくと、真の自由を味わうことができます。そのとき、自分が伝道のために存在していることがわかります。古い枠が邪魔しないように、ただ聖霊に満たされるように求めなさいと言われます(使徒1:8)。これだけを求めているなら、イエス様にしかできないことが、私に起きるようになっているのです。
 自分がイエスを受け入れた最高に幸いな者であり、人のいのちを生かせる唯一の存在であることに気づき、「私は伝道者」ということを人生の軸にしましょう。キリストの福音と福音宣教以外には、絶対的なものはないと確認して、ほかのすべてから自由になるようにお祈りします。