日曜メッセージ要約版

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メッセージ要約版

2014年01月19日

渇いている人生(ヨハネ7:37-44)
 有名人や芸能人の中で、外から見ているととても華やかで、楽しそうなのに、突然、自殺する人がいます。なぜそのような道を選んだのかと、いろいろ言われますが、その人が、なにか人生に渇きがあって、その渇きを満たそうと必死になったのですが、結局、満たせるものはなにもなかったということでしょう。トルストイは、有名になったのに、駅の前の乞食の姿で死んだのが見つかりましたし、釈迦は宮殿生活を捨てて、世に出て、結局は「無」であるとことばを残して死にました。ヘミングウェイは、人が求めることをすべて手に入れて、地上最高のパラダイスと思えるようなところで暮らしていたのに、自ら猟銃で自殺しました。それらのことから、人生の飢え渇きは、その人々が持っていたものでは解消しなかったということを知るべきです。愛情に飢え渇く人、成功を求める人、人々から認められる名誉を求める人、それらで幸せが手に入ると思ってがんばる人が多いのですが、それでは満たされないので、快楽に走る場合もあります。一時的には、満たされるような気がするでしょうが、それらのことでは、人生の飢え渇きは解消しないのです。自分の求めることを手に入れても、満たされず、より飢え渇くようになります。人間は、そのようなことで満たされることができない存在だからです。
 人は、ほかの動物とは違い、肉だけではなくたましいがある、霊的な存在です。人間だけが、唯一、肉と霊があるように創造されました。人間は神様とともにいて生きるように造られたのです。それは、人をとおして、神様が賛美され、栄光を受けるためでした。ところが、たましいのある神のかたちとして創造された人間が、罪によって霊である神様から離れてしまいました。たましいに神様がおられるべきなのに、神様が離れてしまったのが、飢え渇く理由です。ですから、渇きを解消するためには、神様と出会い、たましいに神様が宿られるしかありません。ほかのなにがあっても、その神様がおられない穴は埋められないのです。ところが、人間は悪魔にだまされて罪を犯し、悪魔に捕らえられるようになったので、神様に自分から戻ることはできません。神様を信じることも、見ることもできないのです。罪をゆるされることもできず、悪魔に勝つこともできず、神様に会うことができないことを霊的な問題と言い、原罪と言います。これが、人間の問題の本当の原因です。
 そのような人間のために、神様が会いに来て下さると約束してくださいました。その約束がキリストです。キリストをとおして神様が人間と会ってくださり、神様に会うことを邪魔する悪魔を完全に踏みくだいて、罪を身代わりに受けて解決してくださいます。それゆえ、人間の渇きを満たすのは、キリスだけなのです。飢え渇く人はだれでも、キリストに行けば渇きが解消するようになります。これが真理です。そのキリストが世にこられました。イエス様が預言どおり処女マリヤから生まれ、十字架にかけられ死に、三日目に復活され、キリストであると示してくださいました。人生の飢え渇きを満たして解消するキリストが、イエス様なのです。ですから、だれでもイエス様のところに行くと、人生の渇きは解消するようになります。そして、いのちの泉が湧き出るようになると言われたのです。
 イエスがキリストだとわかって、イエス様のところに行くと、その人の中に聖霊が宿られて、その人は神の神殿となります(Iコリント3:16)。聖霊をとおして神様がともにおられるようになるので、飢え渇きは終わります。聖霊は内に宿られ、永遠にともにおられるようになります(ヨハネ14:16-17)。いつまでも飢え渇くことはないのです。イエスをキリストと信じると死からいのちに移り(ヨハネ5:24)、罪と死の原理から解放されます〈ローマ8:2〉。飢え渇きのゆえに疲れて重荷を負っていた人生が、休みを得るようになり(マタイ11:28)、御国の国籍が与えられるので天国の希望をもって生きるようになります(ピリピ3:20)。世を生きる間も、泉が絶えることなく湧きいで、なにも問題になりません(ピリピ4:11-12)。すべての環境が問題にならず、死の陰の谷でも大丈夫です(詩篇23)。人生の渇きは終わるのです。ほかのことはキリストに比べるとちりあくたと言えるほど、ほかのことから自由になります(ピリピ3:8)。
 ですから、イエス様のところに行って、イエスをキリストと信じましょう〈ヨハネ1:12〉。信じて受け入れたら、聖霊が内住されているので、根本から変わりました。もう飢え渇くことはありません。まだ、足りないと思うのは、だまされているだけです。キリストが自分の人生を生きておられることはどういうことかを、じっくり考えてみましょう。聖霊の満たしが約束されているので、信じて、満たしてくださいと祈りましょう。具体的にいのちの泉が湧き出るのを体験するようになります。どんなことがあっても、ほかのことで渇きを解消しようとせず、神様がおられるから、渇きは終わったと、ただ聖霊で満たされることを祈り求めましょう。自分がイエス様を信じたゆえに、渇きを覚えなくてもよい存在になったと、自分を正しく確認して、キリストに集中して聖霊の満たしを求めるクリスチャンになるように祈ります。