日曜メッセージ要約版

教会の講壇メッセージ動画は、レムナント教会のサイトに出ています
http://jremnant.net/


メッセージ要約版

2014年04月27日

必然的イエスの死(ヨハネ12:20-36)
  イエス様がご自分が死ぬ時が来たことを分かって語られる場面です。できるなら、このさかずきを避けてくださいとまで言われたほど、人間の理解をはるかに超えた、次元の違う苦しみの死でしたが、イエス様は、このときのために来たと言われ、みこころのままにしてくださいと祈られたのでした。なぜイエス様が、これほど悲惨で苦しい十字架の死を迎えなければならかったのでしょうか。
 これほど苦しく、悲惨な死のほかには人類に希望がなかったからです。この死以外には、人類が助かる道はありませんでした。今も世の中は、希望の題材はたくさんあって、苦しみがなくなるかのように、信じ込ませています。政治家がよくなれば、科学が発展すれば、教育、社会、秩序が整理されれば、よくなると希望を与えていますが、本当は、それらは勘違いであって、イエス様の死でなければ希望はありません。人はまことのいのちの神様に会って、いのちの祝福にあずからなければ希望はないのですが、人間からはどこに行っても、なにをしても、神様に行く道はないのです。人間は、罪人です。それゆえに、イエス様が来てくださり、悲惨な死に方をしてくださったのです。それが、救い主の姿であり、救い主の愛です。イエス様の死によってのみ、ほろびの運命の鎖から解放されるようになります。そして、すべての不幸をもたらした悪魔(サタン)の手から自由に解放されるのです。罪がないイエス様の十字架での悲惨な死以外には、人類には幸せはありません。また、罪人が救われることで神様の栄光が現されるのです。人間が、滅びと悪魔の手から出ることが神様の栄光であり、神様の喜びです。それゆえ、イエス様は死なれました。人間の根本的な本質は、イエス様が十字架で悲惨な死に方をするしか、希望がありません。イエス様の死は必然的なものなのです。
 また、イエス様が「ひとつぶの麦が死ななければ、いのちの実を結ぶことはない」と言われたように、イエス様が死なれることによって、多くのいのちの実を結ぶことができるのです。イエス様が死なれることによって、人種や身分の上下の壁がすべて崩れ、だれでも、すべての人がいのちにあずかる道が開かれました。イエス様の十字架以外、差別はなくなりません。十字架の死によって、だれでも差別なく、いのちの救いにあずかる新しい生きた道が開かれたのです。その代表的な例として、十字架でとなりにいた強盗が、イエス様を信じて永遠のパラダイスに迎え入れられました。差別の条件は、いっぺんにすべて崩れたのです。そのための死でした。また、イエス様の死は、単なる死ではなく、イエス様だけが救いを成し遂げることができる唯一のキリストだったので、絶対的なものでした。イエスはキリストなので、死ななければならなかったのです。身代りとなり死に、そして、神様の約束である唯一の希望、キリストであったということを証明するために、三日目によみがえられました。
 この悲惨な死に方をされたイエス様に従うか、従わないかによって分かれるようにます。自分のいのちを愛する者とは、十字架の死などありえないと言う人で、自分のいのちを憎む者というのは、イエス・キリストが自分のために死んでくださらないといけないと認めることです。十字架を自分のために必然だと認めることが、イエス様に従うことで、自分のいのちを憎むことになり、永遠のいのちを得ると言われました。その人は、神の国に入るようになります。ユダヤ人は、十字架の死を認めなかったので、自分を愛することになり、暗やみの国から出ることはできません。十字架の悲惨な死は、自分のために必要であったと認めましょう。自分はその悲惨な死でないと希望がない罪人であると認めるとき、いやされるようになります。そして、十字架で死なれたイエス様を信じたなら、いのちをもらっているという確信を持ちましょう。いのちの実を結ぶために死なれました。十字架の悲惨な死によって結んだいのちのみのりが、自分であると、自分を見なして、尊い存在だという自覚を持ちましょう。イエス様を信じたなら、過去や現在になにがあっても、いっさい関係なく、イエス様によっていのちが与えられた、神の霊が宿っている者です。それを強く感じることが伝道です。自分を正しく発見しましょう。そして、世の中にいても、いつも光の中にいることを意識しましょう。そうすれば、暗やみの中にいる人が見えて、天命が聞こえるようになります。不安や否定的な思い、劣等感など、十字架の前ですべてなくして、美しい姿の自分を発見しましょう。そして、人々を助けて生かすために召されたと知り、祈り始めましょう。聖霊のバプテスマを与えると約束してくださったので、求めて祈りましょう。この危機の世界で、イエス様が希望であることを伝える人が必要です。そのことを祈る人が必要なので、イエス様は十字架で死なれました。自分は尊い十字架による実りであると確認して、それ以外のいままでの刻印されたことを捨て、すばらしい福音をありのまま伝えていくように願います。