日曜メッセージ要約版

教会の講壇メッセージ動画は、レムナント教会のサイトに出ています
http://jremnant.net/


メッセージ要約版

2014年09月21日

イエスの罪名((ヨハネ19:10〜16)
   人のことを正しく理解することは、人生が成功するのにとても大切です。人は、イエス様の前に立つとき、本性、本質がリアルにあらわされます。今日の聖書箇所は、罪がないイエス様の逮捕のあと、ローマの総督ピラトによる裁判の場面です。ピラトは、イエス様になんの罪も見つけることができなかったのですが、祭司長やパリサイ人たちは、イエス様を十字架刑につけるように要求しました。結局、「ユダヤ人の王」つまり、「キリストだと自分で言っている」という罪名で十字架刑が決められました。そのとき、ピラトがイエス様を釈放するための最後の手段として、祭りで釈放する予定にしていた強盗殺人罪のバラバではなく、イエス様を釈放するのはどうかと言ったのですが、人々は、強盗殺人よりもイエス様のほうが悪いから、バラバを釈放するようにと要求したのでした。
イエス様がご自分のことをユダヤ人の王、つまり、キリストだと言われたのは、事実であり、人々はイエス様の言動を見ていたので、疑う余地なく、キリストだとわかったはずなのに、強盗殺人よりも重い罪だと言いました。それは、人々には見る目がなかったからです。目が暗く、見る目を持っていないことが、一番おそろしい問題です。人は生まれながら神の御怒りを受けるべき子として生まれ、罪過と罪で死んでいると言われているように、罪によって神様のこと、救い主のことが見えません。罪ゆえに、サタンにとらえられていて、たましいが死んでいるので、真理が見えないのです。そのような罪を抱えていることが、どれほどおそろしいかというと、神の御子であるキリストを十字架で殺すほどです。それが、人間の本性、本質なのです。ですから、イエス様の罪名は「キリストを十字架で殺そうとするほどの人間の罪のおそろしさ」だと言えるでしょう。神様を離れ、罪を抱えている私たちは、どれほどおそろしいのか、自分の罪が見えてくるべきです。そのように見るときに、新しい人生がはじまります。サタンはこれが見えないように、いまも混乱させています。聖書は「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」とはっきり書いています。人間の本質は、悪魔から出たものであると言われていて、その本質を持って走っているのが世の中です。
 十字架は、そのような人間の罪のおそろしさを現していますが、それと同時に、神様の無条件の愛を現します。それが恵みです。神様しかできないことで、人間には理解できないことですが、信仰によって信じるだけです。十字架は、神様が許されたことであり、それゆえに人間が助かる道が開かれるようになったのです。そのひとり子をお与えになったほどの神様の愛です。そうでないと、すべての人間が滅びるからです。私たちがまだ罪人であったときに、神様が御子をくださって、神様の愛をあきらかにしてくださったのです。Iヨハネ 4:9〜10には、神様が先に私たちを愛してくださったと言われています。イザヤ53:6では、滅びるしかなかったのに、すべての罪と咎をイエスに負わされました。キリストを十字架で殺すほどの罪人の人間であると同時に、それほどまで人間を愛してくださった神様の愛を十字架の前に立つと見ることができます。そうすると、ほかを見ることなく、神様の愛に目が固定されるようになるでしょう。
 そのような人間の罪のおそろしさ、神様の無条件の愛が分かったならば、結論として、自分の知っている人や受け入れがたい内容、自分の弱さなどにとらわれないようにしましょう。とらわれているので、傷になり、憎しみになります。そうではなく、人間の本性を正しく理解する材料として扱うようにしましょう。神様の無条件の愛と恵みだけを希望と見る材料にして、キリストと神様の愛に縛られるようになりましょう。そして、イエス様を信じなければならない絶対的な理由としましょう。イエスをキリストと信じて受け入れたら、いのちの祝福を受けた者だという確信を持ちましょう。イエスの十字架を見ても信じられないのが人間です。それなのに信じたのは、聖霊の働きであり、選ばれた者であるということです。疑うことなく、確信を持って、滅びない祝福の子だと信仰を大切にしましょう。そして、人を愛する人生を生きると決心しましょう。人を愛することは、キリストを伝えることです。残りの生涯、本当の意味で人を愛すると決心しましょう。十字架の前で、人間を正しく理解して、神様の無条件の愛の恵みに固定されて動かないようになることをお祈りします。