日曜メッセージ要約版

教会の講壇メッセージ動画は、レムナント教会のサイトに出ています
http://jremnant.net/


メッセージ要約版

2014年11月30日

疑わずに(ヨハネ20:24-29)
   いままでの教会史を見てみると、クリスチャンは弱く、力もない人々で、迫害や状況はとても厳しいことが多くありました。しかし、その中でも、失敗したり負けたりしたことは一度もないのです。それは、正しい信仰さえ持っているなら、十分に勝利でき、証人の座、祝福の座に立てるということを証明しているのですが、つい私たちは、勘違いしてしまいます。今日、疑ったトマスに、見ずに信じる者は幸いですとイエス様が言われた場面から、正しい信仰さえ持てば、十分に勝利できる存在になっていることを心にとめるようにしましょう。
 サタンは、信じることができないように、邪魔をしてきます。キリストから目を離し、キリストがポイントにならないと、信仰は限界にぶつかります。多くの場合、キリストから目を離して、理性に基づいて考えようとします。しかし、理性を信仰の根拠にしようとすると、必ず信じることができなくなり、限界にぶつかります。学問、教育、研究は発展には役立ちますが、信仰の根拠にはなりません。限界があることを認めるべきです。ニコデモは理性の人でしたが、イエス様のところに来ても、霊的世界がわからず、話が理解できませんでした。理性がすべてを解決できると信じた16世紀のルネッサンスは、いろいろな面で啓発運動が起き、発展はしましたが、第一次、第二次世界大戦という結果を招くようになってしまいました。理性の中では復活はありえないことになり、限界にぶつかるのです。
 また、キリストから目を離すと、経験の壁にぶつかって、信仰の限界にぶつかります。経験によって知恵が生まれます。しかし、経験は人それぞれであって、限界があり、絶対的ではないので、信仰の根拠にはならないのです。自分の経験が絶対だと主張すると、がんこになるだけで、それにとらわれて、出てくることができなくなります。
 また、キリストから目を離すと、常識の壁にぶつかります。常識を逃すと、社会生活、人間関係は成り立ちません。必要なことなのですが、信仰の根拠にはならないのです。いまは常識でも、100年前は違っていたかもしれませんし、ほかの民族には常識ではないかもしれず、いつまでも、それが常識であるかどうかもわかりません。
 信仰の基準はキリストであるべきです。信じる者になりなさいと、イエス様も言われました。義人は信仰によって生きると言われています。サタンは、私たちが悪魔のしわざを打ちこわされたキリストによって、勝利の旗を掲げることを恐れて、理性、経験、常識で信じないようにさせます。信仰をキリストに基づくものとして、勝利の人になりましょう。キリストは絶対に必要だという証拠が、聖書から、歴史から、今の情勢からも見えるでしょう。希望はキリスト以外ありません。キリスト以外には、人生の答えはないのです。ですから、信仰の基準をキリストに置いて、「もしキリストならば」ということから考えましょう。キリストならば、復活は必然で、そうなるしかありません。復活は、神様の救いの約束であり、方法で、すべて完了した証拠です。「キリストだから」当然で、神様なら、これ以上のこともできるのです。神様の恵みで信仰の根拠をキリストにして、信じるようにしましょう。そうして、疑わず復活を信じ、だから「イエスはキリスト」という告白をするようにしましょう。イエスはキリストという告白をすることが幸いです。その告白によって、滅び、絶望、暗やみから、完ぺきに解放されます。イエスをキリストと信じるその瞬間、すべての人が永遠のいのちを受け、聖霊が宿るようになり、いのちの泉の川があふれ出るようになります。信じる者は、みな新しく造り変えられるのです。自分が新しくしようと努力するのではなく、信じて受け入れると、新しくなるのです。信じるようにしましょう。
 心の中で疑いをもたらすことを見つけて、切り離してしまいましょう。信仰の根拠をキリストだけにしましょう。理性、経験、常識に合わなくても、キリストなら、キリストだからこそと考えて、イエスはキリストとはっきりと告白しましょう。この告白が原点であり、勝利の鍵です。その告白の上に立って、救いの確信を持ち、神様の答えを確信して祈りましょう。イエスをあかしするようになるので、その姿を思い描きましょう。かならずそのとおりになります。疑うことなく、自分が暗やみにとらわれている人に、イエスをあかしして、その人々が信じて受け入れる姿を思い描き、その人々が弟子となっていくドラマを考えましょう。そして、そのとおりにしてくださいと祈ればよいのです。信じる者となりましょう。それが幸いな者です。みことばどおりになると信じる幸いな者になることをお祈りします。