日曜メッセージ要約版

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メッセージ要約版

2014年12月14日

落胆不要(ヨハネ21:1-14)
  イエスをキリストと信じて受け入れた人は、自分がどう思っていても、神様が備えられたたましいを救うために用いられる伝道者になっています。それを自分の祝福として味わうことができないように、サタンが攻撃してくるのですが、その攻撃の中の攻撃が「落胆させる」ことです。きょう、私たちはなにがどうであっても、落胆する必要のない神の子どもの身分であることを覚えましょう。
 今日の聖書箇所で、イエス様を知らないと否定してのろうまでしたペテロが、復活されたイエス様に2度まで出会ったのに、回復できず、がっかりして、魚でもとりに行こうかと出て行った場面です。そのペテロをあきらめることなく、イエス様が尋ねて来て、回復させてくださいました。どんな場合でも、神様は絶対にあきらめられないので、落胆する必要はないのです。私を愛して、御子を十字架にまでつけられた神様は、どんな場合でも、神の子をあきらめられることはありません。未信者であっても、神様の救いに定められている人なら、なんとしても信じるようにされるのが不可抗力的な神様の恵みです。罪人であったときにすら愛してくださったのに、ましてや、信じた神の子に良いものを与えられないことがあるでしょうか。どんなことがあっても、見守って、天国までガイドして導かれます。これを聖徒の堅忍と言います。キリストの日まで成し遂げる(ピリピ1:4)、すべてのことを働かせて益とする(ローマ8:2)と言われました。神様の御手にとらえられているので、奪い取ることはできないと言われています(ヨハネ10:28)。悪い習慣、病気が改善しないからと、落胆しがちですが、そのとき、より親密に神様が迫ってこられる時です。それらは、落胆の材料ではなく、神様のはかり知れない愛を知る材料です。その愛は、私のすべてを超えるものです。
 また、いまペテロの前に現れたイエス様は、旧約の預言のイエス様でも、ガリラヤのほとりを歩いておられたイエス様でもなく、十字架で死に、すべてを完了されて、三日目によみがえって、キリストであることを証明された復活のイエス様です。落胆するしかない過去の問題は、すべて処理して解決されました。永遠の天国まで保証されています。十字架で、すべて完ぺきに成し遂げられたのです。ですから、落胆はいりません。悪魔の頭を踏み砕き、罪を解決して、のろいの運命を打ち砕き、完ぺきに勝利された主です。そして、いまは昇天されて、万軍の主となっておられます。歴史のすべてを動かされ、すべてのものが御前にひざまずく復活の主なのです。ですから、落胆の材料があっても、落胆する必要はありません。
 いままでの落胆の材料は、自分の内側で、イエス様を回復する時間にしましょう。落胆の正体は、イエス様を回復させようとされている、神様のあきらめない愛の裏返しなのです。落胆しているということは、イエス様の他に関心が言っているか、イエス様で十分ではなく、なにか他に頼っているからです。そのことを省みて、自分に「イエスは私にとってキリストなのか」と質問してみましょう。本当にキリストなのか、バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤの色ではないのかと確認して、イエスで幸せなのは本当なのか、その他のことはすべてちりあくたになっているのかと自分を回復しましょう。いままで影響されていたところから自由になるでしょう。そうしたら、そこで、本当の新しい自分を発見して、まことの使命を見るようになるでしょう。イエスを回復できてこそ、使命と伝道とが結びつくようになるのです。神様の願いは、イエスがキリストとしてひとりひとりに回復して、使命の人生を回復させることです。落胆の材料があるとき、イエスを回復して、新しい人生の門が開くことを体験しましょう。
 これから、できるだけ、落胆の時間や状態を短くする習慣を身につけましょう。落胆の材料の前で、条件反射的にイエスの血の力を思い出す瞬間祈りを訓練しましょう。イエスの血を思い出すこと、それが祈りです。それから一歩進んで、落胆の材料を窓ガラスにして、使命を見るようにしましょう。イエスの愛と変わらない力を回復させる神様の愛を思い出し、使命を忘れていないかを考えましょう。メッセージを握り、神様の愛と尊い伝道の人生を映す鏡にして、落胆不要である歩みをするようにお祈りします。