日曜メッセージ要約版

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メッセージ要約版

2012年2月5日

罪ゆるされた感激(ルカ7:36-50)
 パリサイ人のひとりがイエス様を自分の家に食事に招いたときに、ひとりの女の人がイエス様のうしろに来て、涙を流し、その涙でイエス様の足を洗い、持ってきた香油をすべて注いで、髪の毛でぬぐいました。その女は罪深いとみんなから言われていた人だったので、パリサイ人は心の中で、イエス様が本当に預言者なら、そのような女だから、やめさせるはずだと思っていたのです。それを知ったイエス様は、パリサイ人に向かって、お金を借りた人のたとえを出して、多くの罪をゆるしてもらったら感謝して、愛するようになると言われました。本当に罪がゆるされることがどういうことか分かったら、女のようにするのが当然なのですが、パリサイ人は罪のゆるしの感激がわからず、女の行動が理解できなかったのでした。クリスチャンでも、罪のゆるしがなにか分からず、感謝や感激していないなら、礼拝や献身することが分かりません。今日のみことばから、罪のゆるしについて考えてみましょう。
 聖書では、私たちの罪は大きいか小さいかは問題ではないと言われています。世の中では、裁判がそうであるように、罪の大きさ、重さで裁きの大きさも決まります。しかし、神様の前では、罪の大小はテーマではないのです。罪は大小があるように見えても、その根をさぐっていくと、同じ霊的問題から生じるものなので、霊的な基準から言うと、大小を問うことはできないのです。
 本当のテーマは、その罪がゆるされているかどうかなのです。神様は罪を犯したことやその大きさを見ておられるのではなく、その罪がゆるされているか、そして、罪がゆるされた感謝からスタートしているかを見ておられるのです。神様は聖なるきよいお方なので、罪はどんな罪であっても、かならず裁かれます。そして、私たちは、自分で罪を解決することはぜったいにできません。罪はそれほど恐ろしいもので、かならず裁かれて、滅びと地獄しかなく、私たちではどうすることもできないのです。それゆえ、人は幸せになりたくても、幸せは手に入らず、重荷を負って生きるしかないので、家族は崩壊し、人間関係も壊れ、病名がわからない病気になったり、心に平安なく、精神も病み、希望を失い欲にしたがって生きるしかありません。どんなにがんばっても、バベルの塔が崩れるように、崩れてしまいます。世の中のいちばん根底には罪の力があり、死の力に全人類が捕えられて、身動きができないのです。
 そのような私たちを愛された神様は、私たちではなにもできないので、神様が罪をゆるすために道を備えてくださったのでした。罪のない神の御子イエス・キリストが私たちの身代わりとなって、すべての罪を負って、私たちの罪の裁きをイエス様が受けてくださったのです。それによって、私たちの罪はゆるされるのです。キリストが私たちの罪がゆるされる唯一の道であり、他には道はありません。女の子孫であるメシヤ(キリスト)が、私たちのかわりにかかとにかみつかれ、血を流すことによってのみ、罪がゆるされるのです。イザヤ53:4-6に、すべての罪を負われるキリストの姿が書かれています。また、ローマ3:23-25、ヘブル10:11-14にも、イエスがあがないの犠牲のいけにえになってくださったことで、罪をゆるす唯一の道であると書かれています。
 罪をゆるす唯一の道キリストがイエス様であると知って、信じて受け入れる者は罪がゆるされるようになります。イエス様が来られたので、イエス様を信じるかどうかがテーマになるのです。女の人は、イエス様を信じて罪のすべてをゆるしてもらったので、その感謝と感激ゆえに行動したのでした。それは、罪のゆるしがわからないパリサイ人には、まったく理解できない行動だったのです。
 本当に神様の恵みにより、罪がゆるされたと知るなら、感謝、感激を持つようになります。それが、本当の新しい人生、まことの人生のはじまりです。罪のゆるしの感激こそが、信仰生活のスタートの土台です。その感謝と感激があると、自分からささげたくて仕方なくなります。計算をはるかに越えた献身が当たり前に生まれてくるのです。他の人がどうするかとか、計算はまったく関係なくなります。その感激がないので、葛藤などが起きるようになるのです。
 すべての罪がゆるされていることをもう一度、考えてみましょう。そして、それによる感謝と感激を回復しましょう。罪がゆるされた感謝、感激をもって、父なる神様を大胆に見上げ、聖霊の感動による献身の人生になるようにお祈りします。